ANGEL FEATHER



「‥たく、しつこい奴らだ‥」
 いい加減うんざりしたように、男はグラスを呷(あお)った。
 客もまばらな古ぼけた酒場‥。
 真っ昼間から、たった一人でカウンターを陣取っていた東洋系の男が、足元に立て掛けていたライフルを引き寄せる。
 数日分の不精ひげに、だらしなく着崩した上着。酒臭い吐息を漂わす口元から にやけた笑いが消え、鬱陶しげに揺らした前髪の隙間から冷えた眼光が覗いた。
 カウンターに転がった酒瓶の数は、男にとって意味を成さないらしい。この程度流し込んだところで酔えないことは男自身が承知していた。
「いいさ、飲んどけよ‥」
 瀟洒な風貌を台無しにした東洋系の男とは対照的に、こざっぱりした身なりの白皙の青年。白茶けた金髪に哲学者の静けさを湛えたブルーアイズ。入り口に近いテーブルに足を載せ、薄暗い天井をじっと眺めていた若い男がふいに呟いた。
 店には、店主とこの二人の男の他、ポーカーに興じる数名の男達。そして、場違いなように美しくたおやかな女が二人、金髪の青年と同じテーブルで微笑んでいた。
 入れ替わる客をことごとく魅了する極上の女。しかし、酔いに任せて声をかける客は一人としていない。この土地に住まう者ならば、その後におのれに降りかかるであろう災厄をまず予見する。
 銃をぶら下げた男達が、気の向くままに流れ込む小さな宿場町。そんな流れ者相手に生計を立てている町の者達の目にも、この一行は奇異に映った。
 目立たぬが堅牢な男達の装備、くつろいでいるようで隙のない女達の挙措、そして何より、気負いを捨て去ったような一行のその余裕が、返って不気味に伝えていた。
 危険‥なのだと。
 事実、この男達は無法者と呼ばれる部類の中でも、裏世界の闇部でのみ生きる者達であった。
 東洋系の男はヴァセル。金髪の男はコリンフィールドという。ともに高額の賞金首であるが、今もって、確たる素性は割れていない為、軍に追い詰められる心配はなかった。
 ただ、追われていることには変わりない。
 殺し屋稼業から足を洗おうと決めたヴァセルが、裏世界の大物 エジャスと抗争中のコリンフィールドと行動を共にするようになって、まだ一年も経たない。
 流れのまま、ヴァセルはコリンフィールドの戦いに加担するようになったが、二人の呼吸は不思議とかみ合い、それ以来、止むことなく巨大な敵をじわじわと侵し続けている。同時に命の危険は増すばかりであったが、ヴァセルはそれも悪くはないと思っていた。
 一方、二人の女はコリンフィールドの古くからの連れらしく、背の高いブルネットのほうはエレノア、夭(わか)い方はフロルと言った。常にコリンフィールドの近くにいるわけではないが、仕事も情報も、どこからかこの女達が運んできた。
 ヴァセルは女達とコリンフィールドの関係について、今まで聞きもしなかったし訊く気もなかった。信頼に足ることさえ分かれば、必要のないことであった。

 数発の銃声が轟き、間もなくコリンフィールドが帰って来る。

 そして再び、何事もなく時が流れ出そうとしたその時、唐突に店の扉が開いた。
 入ってきたのは、二〇代半ばの女性である。流れるような栗色の髪を、無造作に後ろで一つに束ねている。酒場に漂う澱んだ空気に似つかわしくない、澄み切った眼差し。
 女は店内を一瞥すると、大股で歩きながら真っ直ぐにカウンターへと向かった。
 そして、ヴァセルの伸びきったショートヘアを勢い良くかき混ぜると、彼が振り返るのも待たず、快活な声で頭ごなしに言い放った。
「なぁに、アンタは昼間っから?」
「リュー!?」
 椅子からずり落ちそうになりながら、ヴァセルが面食らったような声をあげる。
 目の前にいるのは、六年前に飛び出した故郷にいるはずの幼なじみ。
 このような辺境の酒場で、まみえるはずのない女であった。 


      †


「何も解っちゃいない‥!」
 ヴァセルは怒鳴りかけた声を収め、呻くように呟いた。
「帰るんだ‥」
 もう幾たび、同じ言葉を繰り返したことだろう。なだめたりすかしたり‥忙しいヴァセルを気にも掛けず、町並みを見渡すリュー。
 前触れもなくリューが現れてから、すでに一週間が経っていた。


 あの酒場の日、リューは嬉しげにヴァセルを小突き回し、あっけらかんとこう言った。
「しばらく厄介になるわね‥」
 リューはヴァセルが裏世界でも有名な賞金首になっていることも、飄々とどんな仕事をしているかも、全て知っているらしかった。それどころか、
「どうせならもっと高額の賞金首になりなさいよね。アンタ昔っから中途半端よねぇ‥」
 などと言い出す始末。相場からしてもかなりの賞金額なのだが、それを誇る訳にもいかず、ヴァセルは理不尽な要求に頭を抱えた。
 リューは男らしいとも言える、こざっぱりしすぎた性格で、昔はヴァセルと泥んこになって駆け回ったりしていたものだが、六年ぶりに再会したリューは呆れるくらい女らしく美しくなっていた。
「帰れ‥」
「いやーよ! 宿代も旅費も自腹なのよ。勝手に付いてくだけなんだから、迷惑なんてかけないわよ。それに、アンタに守ってもらおうなんて、これっぽちも思ってないから心配しないで。大体、私、喧嘩でアンタに負けたことあった?」
「一体、いつのこと言ってるんだよ!」
「何よ、やるっての?」
 ふん、と背伸びするリューに、ヴァセルが言い返せずに歯噛みする。
 たまらずコリンフィールドが笑い出した。
「いいんじゃないのか? 当分、エジャス(やつ)の追っ手も来ないさ。軍と大もめで、俺達如き小物に付き合ってる暇はないとさ?」
「あのな‥」
「二〜三日、お前もゆっくりしろよ」
「ちょっ‥ 待て! 言っとくが、こいつとはそういう関係じゃないぞ!」
「当たり前でしょう‥ アンタみたいな三下(さんした)とこの私が釣り合うとでも思ってるの‥」
 ああ、やだやだ‥。リューは肩をすくめると、ふいにコリンフィールドと女達に目配せし、ヨロシクね!と朗らかに笑った。
 ヴァセルは後向きにまたいだ椅子の背もたれに、不機嫌そうな眼差しを沈めた。そして、店主に水を注文するリューの均整の取れた後ろ姿を見つめ、次に、涼しげに二人の女と語らうコリンフィールドを見やった。
 数日後には、ここを去る‥。
 そして、リューの前からも永久に‥か。
「‥‥そうだよな‥‥」
 誰にともなく呟くと、ヴァセルは溜息のように嗤った。


 が‥ 今回は勝手が違った。
 今まで、ヴァセル達が追跡者を振り切れなかったことなど一度もなかった。
 女と見くびっていたかもしれない。しかし、それでは説明できない。次の町でも、その次の町でも、リューはヴァセル達の前に現れた。
 どういうわけか、近づくでもなく、ただ付いて来ることが目的であるかのように、付かず離れず姿を見せる。そして、ヴァセル達と目が合うと、ご機嫌そうに手をひらひらさせるのだった。
「いい加減にしろ!」
 遂に、我慢の限界に達したヴァセルが、リューの腕を掴み上げる。
「なによ、いいじゃない‥」
「良くない! 危険だ! 大体、どーやって付いてきた! 何だって、行く先々にお前がいる!?」
「だって、アンタ酒臭いんだもん‥ 遠くからでも分かるのよ」
「な訳あるかっ!!」
 ひとしきり怒鳴り散らしたものの、リューはいっこうに聞き入れる様子もない。何の為に現れたのか目的も語らず、ヴァセルを無視して珍しげに町並みを眺めている。
「人の多い町ねぇ‥」
 とたん、ヴァセルはリューの腕を振り放し、背を向けた。
「最後だ。達者でな‥」
 そう言い残すと、振り返りもせず人混みに紛れた。


      †

 
 大通りからはずれた路地に建つ安っぽい宿屋。2階の客室で、エレノアとフロルが静かに物陰に身を潜めた。
「まずったな‥」
 壁に身を寄せて、白く汚れた窓を覗くヴァセル。
 銃を携えた男達が宿の周囲を固めている。
 コリンフィールドが無言で肩をすくめた。
 油断していたつもりはなかったが、やはり大きな町に姿を見せたのは間違いだったのかもしれない。
 娼館の林立するこの町では、女連れの一行が目を惹くこともない、が、すれ違う人目の数も辺境の比ではない。
 一体、どこで見咎められたのか。
 エジャスの息のかかった賞金稼ぎ達であろうか‥。急に消え去った周囲の喧騒が、近づきつつある危険をヴァセルらに教えた。
 敵はヴァセルらが気付いていることを、まだ知らない。退路を断たれる前に先手を打って撹乱し、それに乗じて姿を消すのが上策であった。
 ヴァセルとコリンフィールドが敵の目を引きつけておけば、エレノア達は難なく逃げ切るに違いない。後は、逃げるも戦うもその場しだい。彼らにとっては、いつものことであった。
「後でな‥」
 ヴァセルがコリンフィールドに笑みかける。
 二手に分かれて背後に回る。もしくはヴァセルが囮になり、コリンフィールドが援護する。早ければ早いほど突破口は開きやすい。
 外で待機している敵の位置は大体頭に叩き込んだ。すでに階下にいるであろう人数に思いを巡らすヴァセル。ふと、先日別れを告げて以来、姿を現さないリューを想い、安堵の息を吐いた‥ その時、
「火事だっ!!」
 どこからかコリンフィールドの鬼気迫る声がし、数秒遅れて、白い煙が階下に充満した。煙幕である。
 ーー また始まった‥。
 ヴァセルが密かに肩を落とした。
 閃光弾に催涙ガス‥コリンフィールドの携帯アイテムは数知れない。間違いなく趣味で集めているに違いないが、こういう場面で実験使用するのはやめて欲しいとヴァセルは切に願っていた。
 それにしても、尋常じゃない煙の勢いである。それに、やたらと目に染みる。
 ーー 何てもの使ってんだよ‥。
 これから突入しようと思っていた階下が真っ白で見えない。異変に気付いた他の客達の悲鳴が響き、宿中が混乱に陥る。叫び散らしている追っ手らしい男達の声を避けるように、ヴァセルは逃げまどう客に紛れて脱出を果たした。ご丁寧に、外の路地までが白く煙っている。
 向かう先、遠くにコリンフィールドらしき影が見える。
 ーー 撒(ま)いたか‥。
 ふ‥と苦笑した瞬間、張りつめていたヴァセルの緊張の糸が途切れた。
 警戒を怠ったのはその一瞬だけであった。
 しかし、その一瞬が生死の分かれ目となる。
 振り返るより早く、敵の銃口はヴァセルを狙っていた。
 ーー リュー‥?
 殺られる!‥身を翻したヴァセルの眼前に、何故かリューの顔があった。
 そのまま、ヴァセルの首にリューの重みが覆い被さる。
 銃弾を受けているのだろう。リューの体が前後に数回揺れた。
 「‥リュー!!」
 横合いから突如躍りだし、ヴァセルを抱き締めたリュー。振り離そうとするが、リューはしっかりとしがみつき離れない。
「‥あ‥あ‥」
 ヴァセルの体が激しく震える。
 その肩越し、少し眉をしかめて目を閉じたリューの口元は笑っている。
 そして‥ 崩れ落ちる二人。
「ヴァセルっ!!」
 リューを撃った男から血しぶきが上がった。
 銃声に気付いたコリンフィールドが駆け戻ってくる。
 同じく参集し始めた追っ手に向かい、激しく撃ち返すコリンフィールド。
 その時である。狂ったような咆哮が上がった。
「ヴァセル‥!?」
 コリンフィールドが助け起こすまでもなく、ヴァセルは自らの力で立ち上がっていた。驚くことに怪我一つない。
 掠め飛ぶ銃弾。しかし、ヴァセルは身を隠すこともせず、憑かれたように敵を撃ち倒していく。
 今まで相手に致命傷を与えることを避けていたヴァセルが、そんなことにかまう余裕もなく、目に映る男達をただ撃ち続けている。
 とっくに動く影などない‥。

 全ての銃弾を撃ち尽くしたヴァセルの手から銃が落ちた。
 ふらふらと‥ ヴァセルは倒れたままのリューのもとへ行き、その体を強く抱き締める。顔を埋め、肩を震わせ、声もなく泣きながら‥。
 と、唐突に、リューの声がした。
「だーー! ひっつくな!」
 苦しげに息を吐き、すがりつくヴァセルの顔をぐいと押しやる。
「‥‥リュー?」
 涙でぐしゃぐしゃな顔で、ぽかんとするヴァセル。
「アンタと一緒にいるわけよ? 当然、防弾チョッキは不可欠でしょう ‥それも特製!」
 よくわからないが、リューは威張っている。
「リューー!」
 両手を挙げて抱きついてくるヴァセルに、リューが容赦のない一撃をかました。
 ヴァセルはそれで正気に返ったらしい。
 危険に身を晒したリューに対して猛然と怒り始める。 しかし、リューは全く取り合う様子もない。
「怒鳴らないでよ、あばらヒビいってるかもしれないんだから‥ 痛っぅ〜」
 と、背をさする。
「二度とこんなことはするな!」
 食らいつかんばかりのヴァセルを見守るリュー。ふいに真顔になると、
「私はあんたを守る」
 そう呟き、ふ‥と笑った。
「冗談じゃないんだ! 死ぬぞ!」
 叫ぶヴァセルに、リューは肩をすくめる。
「いいじゃない? 私が勝手に出しゃばって勝手に死ぬんだから。気にすることないから、その辺に打ち捨てておいてよ‥」
「リュー」
 殴りそうな勢いでヴァセルがリューの胸ぐらを掴んだ。
「長くないのよ‥。最後くらい好きにさせてくれてもいいでしょ?」
 穏やかに胸を押さえるリュー。ヴァセルの瞳が愕然と見開かれる。
「不治の病ってやつ。死ぬ前に何か馬鹿やりたくなって出て来ちゃったんだ、実を言うと。村長のバカ息子とは結婚させられそうになるは、家は取り上げられるは、ろくな事なかったからね。あの村は。先月、カザトの爺も死んじゃって、もうあそこにいる理由なくなっちゃった‥」
「それで、俺のところへ‥?」
「他に行く当てなかったのよ、情けない話‥」
 言いかけたリューに、突然強引に口づけようとするヴァセル。リューが途中でその顔を押さえつけ、
「何すんだか! あんたは、いきなり!」
 と、懸命に押し返す。
「どうしてあの時、俺と結婚しなかった?」
「もー、しつこいね、あんたも! 昔のこと」
「何故!」
「‥‥‥。だって、あんたと私は、親友で兄弟みたいで‥」
「男とは思えなかった?‥」
「そういうわけじゃないけど‥」
 口ごもったリューの隙を突くように口づけるヴァセル。 その瞬間、リューの本気の張り手がヴァセルの横面に決まった。
「うつるのよ、この病は!! 空気感染はないけど、体液やなんかから‥」
「かまわない」
「かまう! 私はアンタが生きてるのを見ていたい。死ぬとこなんて見たくない。だから来たの!」
「勝手だ!」
「そう。勝手よ? だからこんな奴、死んだって気にしないでよ‥」
 消え入るようにリューは笑った‥。


      †


「何者なんだ‥」
 コリンフィールドの問いは、ヴァセルの疑問でもあった。
 あの後、結局リューは強引にヴァセルらと行動を共にすることとなった。それ以来、追っ手との戦いも絶えることなく、一行は逃れるように辺境の地へと舞い戻っていた。
 まるで今までの静穏がコリンフィールドの油断を誘う擬態であったかのように、追っ手の追跡は苛烈を極めた。その銃火をかいくぐり、誰一人欠けることなく逃げ抜くことが出来たのは奇跡と呼んでもよいだろう。
 そして、その奇跡を可能にしたのが、他ならぬリューであった‥。
 リューは一体どこで身に付けたのか、時にヴァセルやコリンフィールドを上回る体術と射撃の腕を見せた。喧嘩では負けない‥そう仄めかしたのは、あながち冗談でもないらしい。
 だが、ヴァセルの知る限り、リューは間違いなく普通の女であった。驚きよりもまず、信じられない。いや、信じたくない。
 ヴァセルがいくらその理由を問いつめても、リューは笑ってはぐらかし、決して口を開かなかった。
 一方、平静でいられぬヴァセルと違い、コリンフィールドは冷静にリューを見ていた。
 リューは‥ 恐ろしいほど的確にヴァセルをフォローしていた。
 リューが現れる三ヵ月ほど前、ヴァセルは一度、腹に致命傷に近い傷を受けていた。驚異的な回復力を見せはしたが、本調子であるはずもない。気力で前に進んでいるようなものであった。コリンフィールドはそんな友の生き方に口を挟むことはしなかった。
 が、そんな矢先、リューは現れた。まるでヴァセルの不調を知っているかのように‥。
「お前にとって大切な者なら、それでいい‥」
 コリンフィールドはそれ以上何も聞かず、リューの隠れ家への同行を許した。


      †


 それから数日は穏やかに過ぎた‥。
 隠れ家は旅芸人達が多く住まう町のはずれにあった。大きくはないが市もたち活気に溢れる町である。ここで腕を磨いた芸人達が毎日のように各地を目指し、また拠り所を求め、ここへ帰ってくる。この町に家族を置いて旅に出る者も多い。
 コリンフィールドはこの町の出身なのかもしれない。
 もの静かな男であったが、この陽気な喧騒の中では、時折、安らいだように穏やかな表情を見せ、売れない三流芸人という肩書きも難なくこなしていた。
 しかし、その点においては、エレノアとフロルの方が数段上手(うわて)であるかもしれない。妖艶な媚態で男を惑わす顔、慎ましげな淑女‥ どれが本物の彼女達なのかと理解に苦しむほど、もともと芸達者な二人。この町では、逞しい下町の姉妹といった風情で、請われれば歌い、踊り、すっかり周囲の色に溶け込んでいた。 
 ヴァセルとリューも極力目立たぬように、コリンフィールドらに従い、ようやく、込み入った路地に建つ隠れ家へと辿り着いたのだった。
 粗末だが頑丈そうな煉瓦作りの二階建て。ヴァセルとリューはその二階をあてがわれた。間もなくフロルが姿を消したが、情報収集に出掛けたに違いない。
 ヴァセルは夕食を終えると、しばらくコリンフィールドと話し込んでいたが、やがて眠気に襲われて、階上へと向かった。
 二階には二部屋あるのだが、寝室はリューが使うので、ヴァセルは手前の部屋のソファで寝るしかない。寝室に足を踏み入れようものなら、間違いなく張り倒されるに違いない。
 俺はこんなに情けない奴だったか‥と顎を掻きながら、ふと寝室を見ると、ドアが開いている。
 薄明かりの中、リューが苦しげに胸を押さえている。
「痛むのか!」
 駆け寄るヴァセルに、リューが耐えるように微笑んだ。
「悪い。驚かせた? ‥いつものこと。気にしないで」
「医者を呼ぶ!」
「いいって。‥言ったでしょ? 長くないって‥」
「凄腕の医者だ。俺も何度も助けられた」
「‥いいから。放っておいて。お願い‥」
「リュー!」
 険しい顔でヴァセルがリューの肩を掴む。
「‥‥リュー?」
「すこし‥眠らせて‥」
 ヴァセルの肩でリューが寝息を立て始める。
 ーー ‥‥‥‥‥ 。
 ヴァセルはリューをベットに寝かせると、しばらくその寝顔を見つめ、やがて、どこからか取り出した白い布をリューの顔に押し当てた。
 そして、リューが更に深い眠りに落ちたことを確認すると、
「すまない‥」
 切なげな顔で呟き、リューに口付けた。そして、おもむろにリューの衣服を剥いでいく。

 露(あらわ)になったリューの肢体。ヴァセルはその瑞々しさ‥美しさに息を飲んだ。
「こんな綺麗なものだったか? 女ってのは‥」
 今になって手も触れられず、立ちつくすヴァセル。
 その時、小さな呻きを洩らし、リューが苦しげに目を開けた。呼吸を整えながら重たそうに体を起こす。
「何の麻酔?‥ 私の体、あまりきかないんだ、薬のたぐい」
 リューの言葉を無視するように、再び口づけするヴァセル。顔を背けるリューに、
「確かにお前、生娘だったよ。この年になってもさ‥」
 そう言って、リューの胸のふくらみを鷲掴んだ。
 リューは初めて裸身であることに気づき、ヴァセルを払い、毛布で身を隠した。そして、
「嘘だよ‥ ヴァセル。あんた何もしてない。あんたの臭いしないもん。‥酒臭く‥ないし‥」
 と、困ったように微笑む。
「ずっとそばにいたんだ、嗅覚も麻痺してる」
 再びリューを抱き寄せようとするヴァセル。
「駄目だよ!」
「一度も二度も一緒だ‥」
「駄目! まだうつったとは限らない。駄目‥」
 激しく拒絶するリュー。
「駄目‥なんだよ‥」
 リューの瞳から止めどなく涙が溢れていく。その涙に逆らえないように膝を付くヴァセル。俯いたまま一言も発しない。
 ‥と、風が動いた。
 ヴァセルの胸にリューが‥いる。
「リュ‥」
 ヴァセルの胸に頬を押し当てるリュー。そして、潤んだ瞳を上げ、ヴァセルをベットに誘う。
「リュー‥?」
「このままで‥いて」
 裸身のままヴァセルに身を寄せ、リューは目を閉じた。
 自分の胸で眠るリューをヴァセルは何も言わず抱き締める。そして、なんとか眠りにつこうと試みる。
 儚いくらいに柔らかく手折れそうなリューの体に恐る恐る手を回して‥。


      †


 朝一番、ヴァセルは軽いキスで目を覚ました。
「‥リュー」
 頬を押さえ、びっくりして身を起こすヴァセルに、戸口で振り返ったリューがにっこり笑っておはようを言う。
 ヴァセルが慌ててリューのあとを追うと、向かいの部屋には、もうすっかり朝食の仕度が整っていた。
 リューが作ったというスープを口へ運ぶヴァセル。うって変わったリューの態度に戸惑いながらも、顔のゆるみは隠せない。 
「うまい‥」
「そう?」
 よかった!と素直に微笑むリュー。
「そんな服あったんだ‥」
 いつもと違う女らしい装いのリューを、ヴァセルが眩しげに見つめる。
「エレノアさんに借りたんだけど‥。変?」
「似合う」
「ありがと。おかわり追加してあげよう!」
 リューが軽やかに立ち上がる。その時、ヴァセルがリューの髪を束ねたリボンに目を止めた。
「‥それ‥」
「‥‥覚えててくれたんだ‥」
 リューが覗き込むように微笑んだ。
 もうちょっと女らしくしろよな!‥憎まれ口をたたきながら、少年時代のヴァセルが贈った水色のリボン。
 リューはするりとリボンを外すと、ヴァセルのすぐ傍へ行き、何を思ったかふいにヴァセルに口付けした。
 ヴァセルは真っ赤になって湯気を吹き上げる。
 リューは、そのヴァセルの手に優しくリボンを巻きつけると、
「ありがとう。ずっと、忘れない‥」
 そう言って、ヴァセルの手を握りしめた。
 そしてそのまま階下に続く戸口へと向かい、ドアを閉めながら振り返る。
 涙の溢れる目に、ヴァセルの姿を焼き付けるようにして‥。
「リュー‥!?」
 ヴァセルが思わず立ち上がったと同時に、リューの姿はドアの向こうに消えた。
 湧き起こる胸騒ぎに、ヴァセルはリューを追う。
 しかし、ドアは開かない。鍵が掛けられている。
 ヴァセルはドアに体当たりしながら、階下にいるはずのコリンフィールドを大声で呼んだ。
 ドアをぶち壊し、ヴァセルが階段へと続く廊下に飛び込むと、驚いた顔のコリンフィールドが立っている。
「‥どうした?」
「コリン! リューは! リューはどこだ!?」
「見てないが」
「馬鹿な、出口はそこしか! リュー! リューーッ!!」
 半狂乱のようにヴァセルはリューを探す。
 しかし、そこには小さな戸棚と下へと続く階段があるだけで、隠れる場所も出口もない。リューがいないことがわかると、ヴァセルは階下へ向かおうとした。
 その時である‥ ふいに天井のあたりから、ふわり‥と一枚の大きく美しい羽が落ちてきた。
「‥‥‥‥」
 憑かれたようにそれを見つめるヴァセル。


 結局‥ リューは見つからなかった。
 残された羽を名医に見せると、その羽は天使の羽だ‥そう名医は言った。
 ヴァセルはそれを信じた。


      †


 数年後‥ 
 ヴァセルはいまだ戦いの中にあった。
 コリンフィールドは倒すべき敵を屠り‥ 姿を消した。
 そして、あてどなく流れ続けるヴァセルを拾ったのは、どういうわけか政府の正規軍であった。
 何故、軍などに力を貸すことを承諾したのか‥。それはヴァセルにも解らない。首に懸かった賞金の解除‥ そんな理由ではない。
 目の前に現れた男に惹かれた‥。そう言うしかなかった。
 だが、彼を”男”と呼ぶのは正確ではないかもしれない。
 何故なら、彼には性別などなかったから‥。
 濡れたような艶の髪‥ 淡い輝きを纏った姿‥。
 美しいが ‥人ではない。
 ESPを操るミュータント。
 妖魔の血を継ぐ者は珍しくはなかったが、男は今までに見たどの妖魔とも違った。必要以外、現すことはなかったが、男の背には翼があった。
 探し求めていた何かがそこにある‥。そんな予感がヴァセルを軍に留めていた。
 そして実際、探し求めていた欠片(かけら)は、思いもかけぬ姿でヴァセルを悩ませている‥。 
 ウリュウと呼ばれるその妖魔の言葉、しぐさ、反応‥ 何もかもが、時折だが、狂おしいくらいにリューを彷彿とさせるのだった。

「何故‥ 受け止めてやらぬ‥?」
 女を寄せ付けぬヴァセルをたしなめるように、ウリュウは言う。
「お前の追い求めし者は、もうこの世にはおらぬぞ‥」
 ウリュウはおのれの羽を一枚手に取ると、ヴァセルにかざし、冷たく背を向ける‥。
 ヴァセルは自分のことを語らない。しかし、ウリュウは全てを承知しているかのようであった。
 私には見えるのさ‥ 突き放すようなウリュウの言葉の向こうにさえ、リューの姿がよぎった。
 馬鹿げたこと‥ しかし笑い飛ばすことなど出来ぬほど、ヴァセルはリューの影を求めていた。妄想に身を沈め朽ち果てることをどこかで望んでいる。
 残された、たった1枚の天使の羽、その空想の産物でおのれを支え続けている危うさをヴァセル自身が理解していた。
 だからこそ、ウリュウの存在に惹かれるのだろうか。美しい翼を隠し持った人外の命‥。巡り逢わねば、信じることを諦めていた‥。
 天使は‥いる。
 生まれたばかりの様に、柔らかくしなやかな羽。ウリュウの力強い芯の通った羽とは大きさも光沢も違う。
 だが、この男と共にあれば、いつかこの羽の持ち主に逢える‥ そんな気がした。
 たとえどのような答えがそこに待っているとしても、それがウリュウの言葉の通りであったとしても、ヴァセルに他の途は見えなかった。

 銃のグリップに巻きつけた青いリボン。
 時折視線を落とすヴァセル‥。
 
 その一瞬見せる、遠く‥語りかけるようなヴァセルの眼差しを、同じような瞳で見守る者がいた‥。
 それは、他ならぬ妖魔‥ウリュウ。
 彼こそは、リュー‥ その人だった。

 光を纏う‥神の使徒‥。
 リューにとって、全ては定められたことであった。
 古の妖魔‥神の力を受け継ぐ一族。リューはその数少ない血を引く者であった‥。
 眠る血を呼び起こすことで、その身は、人ならぬ者へと生まれ変わることが出来た。
 人が”天使”とよぶ妖魔‥。
 妖魔への変生は政府の要請であり、魔に対抗すべく力を欲する者達の一縷の望みでもあった‥。
 そして誰より、もっとも力を欲していたのはリュー自身であったかもしれない。
 生まれつき秘めていた先視(さきみ)の力が、愛する者の未来を見せた‥。
 この身を賭けて守りたい‥。
 願いの通り、得た力。

 リューは、人ならぬ身になった今も、影のようにヴァセルを守り続けている。
 妙に自分に突っかかる、少年時代と変わらぬ瞳を愛おしげに見つめて‥。




                           
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