第1部 第1章

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 警視庁警備部特務第二課。
 表向きは資料庫で通っている ひとけのないフロアに、その部屋はあった。
 厳重なセキュリティシステムに管理されたこのフロアには、極秘事件担当の特務課が置かれている。
 特務第二課は影使いによる犯罪を取り扱う専門部であり、今回の連続殺人の対策本部でもあった。
 朱華は配属先である特二課へ寄り道ついでに足を伸ばしてみたのだが、いつものごとく何の収穫も得られなかった。だだっ広い一室に数名の情報解析担当者だけを残し、皆、各々の任務に出払ってしまっている。
 ーー 役立たず!
 心の中で舌打ちしながら、同様の罵声を己れにも浴びせかける朱華。
 配属されてから既に5ヶ月。事件の概要どころか、片鱗さえも明らかに出来ぬまま、また一人、犠牲者を出してしまった。
  同一犯によると見られる「切り裂き」連続殺人。
 およそ1年の間に被害者は17名にも上った。
 共通点は、その全員が、片耳、もしくは両耳を鮮やかに切り取られていること。
 現在、犯人らしき人物の目撃証言はあがっていない。
 刃物による直接的な犯行にも関わらず、現場にはもみ合った形跡すらなく、状況証拠から浮かび上がったのは、被害者の逃げ惑い、もがき苦しむ姿だけであった。
  犯人の痕跡の完全なる欠如‥。
 程なく、この事件は「影使い」によるものと判断され、機密扱いになると同時に、国側へアドバイザーとしての「影使い」の派遣が要請された。
 派遣された影使いは朱華で二代目。事件解決に向け、警察でも最高の人材が投入されたが、何の糸口も見つからぬまま今に到っている。
 ただ、被害者17名全員が身元不明のまま‥ その受け入れがたい事実から、偶然の通り魔的犯行でないことは明らかであり、何らかの組織的犯行であることは間違いなかった。
 だが、いつもそこで捜査は足踏みを迎える‥。
 ーー 貴方は誰!?
 亡骸に向かい問い続ける朱華。
 一人でいいのだ‥。
 被害者達を結びつける共通項。
 それこそが狙われた理由。
 解り切っているだけに、後手に回り続けたことが朱華には許せない。
 迷宮に踏み入れたまま事件は終焉を迎えたのではないか?
 もどかしいほどの不安が、朱華を責め苛(さいな)む。
 ーー だが、そんな終わりには、絶対にさせない‥。
 ふと、今朝見た娘の死に顔が、朱華の脳裏をよぎった。
 微笑むように安らかな死だった。
 娘は、還るべき場所にたどり着いたのだろうか‥。

 ーー そうね。見つけるわ‥ きっと。
 朱華は固く目を閉じると、胸の奥の自分に噛み締めるように言い聞かせた。

       *

 ネオンの消えた昼は、虚ろな静けさに包まれている。
 ホテル街の片隅。夜の為だけの街。
 朱華の車は、いかがわしげな路地を通り抜けると、場違いなほど壮麗なビルへと吸い込まれていった。
「お帰り‥」
 気だるげな空気から腰を上げて、黒いスーツの男がゆったりと朱華を迎え入れた。
 薄く羽織った朱華の上着に手を掛けながら、男は何かを囁く。
「知ってるわ‥」
 男が告げた情報は、数時間前、朱華自身が現場で仕入れたものであった。
 「ここ」にいるだけで、ひとりでに情報はやってくる。
 だが、朱華にはそれが出来ない。真実を知りたければ足で探るしかない‥ そうかたくなに信じている。
 しかし、虚実入り混じった情報が交錯する「ここ」も悪くはない‥。最近はそう思えるようになった。
 「ここ」‥
 政界、財界‥ 各界のお歴々とやらが、華やかな表舞台では決して見せることのない裏の顔をさらけ出す場所。あらゆる欲望を叶える為に創られた世界‥。
 会員制クラブと言えば聞こえはいいが、金持ちも貧乏人も素顔になれば やることは同じ。ただ何事も積みあげた金の量に応じるというだけ。
 「ここ」はビルの中に封じ込められた歓楽街。
 完全なる秘密保持と引き換えに、多額の代価を惜しまない者だけが「ここ」の客となる。
 そんな密閉された空間の奥部に、「ここ」の者達でさえ知ることのない部屋があった。
 朱華の為に用意された一室。
 たった一つ、戸籍も過去も抹消された影使いに与えられた居場所である。
 国の機関というよりは隠れ家と言ったほうが近いだろうか‥。この部屋で朱華は種々の依頼を受け、情報を集める。
 このことを知るのはただ一人、朱華専属のエージェントでもある「ここ」のマネージャー、先程の黒いスーツの男だけであった。
 皆が素顔を露わにするこの世界で、影使いとしての顔を隠す朱華。
 「ここ」の女として振舞い、時には相応の仕事もこなしてきた。
 ただ、見知らぬ男に身を委ねる気も媚びる気もない‥ そんな朱華に出来る仕事はおのずと限られていた。
 白い肌も露わに黒革の衣装を纏い、しなやかに、激しく鞭(ムチ)を振るう朱華‥。
 彼女の足許にひれ伏した客達は、悲鳴とも歓喜ともつかぬ声で、更に彼女を求めた。
 客にとっても、「ここ」で働く者達にとっても、朱華はまさに「女王」であった。
 選ばれた者のみが立ち入ることの許されるフロアに住まい、ふらりと気ままに現れては消える‥。何よりも優先されるはずの客へのサービスも朱華には関係ない。予約すら意味をなさず、開店休業のまま、気が向くまで何日でも客を待たせ続けた。
 たった一人の例外。黙して行き去る姿が、かえって周囲の目を惹いた。威厳を纏ったその存在感に気づかないのは、他ならぬ朱華自身だけだったかもしれない。
 遠巻きに見つめる女達の嫉妬と羨望の眼差しすら、いつの頃からか、淡い崇敬の色に変わっていた。

「気を付けたほうがいいわ‥」
 ラウンジのソファーにのっそりと腰をかけた女が、誰にともなく声をかけた。
「最近物騒なのよ‥。昨日も女の子が殺されたっていうし‥」
 マネージャーに出迎えられ、足早に部屋へ戻ろうとした朱華の足がおもむろに止まった。
「何処で‥ それを?」
 背後からの声。振り返った女の物憂げな瞳が大きく開かれる。
「あっ、朱華さん! あの、今朝、ベルナルドのママが‥。新宿の方の娘だって‥」
「うそ、六本木じゃなかった?」
 いつも表情を表さない朱華が興味を示したことが珍しいのか、女達が次々と取り囲むように集まってきた。
 口々に告げる女達の喚声を静かに聞くと、朱華は初めて口元にわずかな笑みを浮かべた。
「新宿の『ラシャダ』ね‥」
 ここには、警察が2日かかっても掴めなかったガイシャの素性を、昼間から酒の肴に興じる女たちがいる。
「悪いわね、今夜もオフよ‥」
 マネージャーの手を払うように上着を受け取ると、朱華は振り返りもせず姿を消した。




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