第1部
第2章
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その日の夕刻‥。
朱華は、幾つかある情報屋のもとを巡り、最後に「託児所」の扉をくぐった。
警視庁を出てからずっと朱華を監視していた影使いは、手持ち無沙汰を紛らわすかのような朱華の巡回を見守り‥ やがて消えた。
そして、朱華は用心深く、もう一軒、行きつけの情報屋の元を訪れた後、おもむろに託児所へと向かったのである‥。
「何か変わったことはない‥?」
いつものように唐突に現れた朱華を、託児所の社長は驚く様子もなく迎え入れる。
「そちらはあったようですね‥」
穏やかな口調で穏やかならざる言葉を返す社長に、朱華は微苦笑を浮かべた。
「そうね‥。尾行までされて、なんだか偉くなった気分だわ‥。何を心配しているのか知らないけれど‥」
「張り付いた相手が悪かったですね‥。気の毒に‥。で、引きずり回したあげくに、煙に巻いたというわけですか‥?」
「人聞き悪いわね‥。私を捨てて帰ったのは向こうの方‥」
「こんな魅力的な女性に失礼な話だ‥。だから、こんなに大事な場面を見落とすことになる‥」
社長は流れるような仕草で、朱華に手渡された鍵をそっとポケットにしまい込んだ。
吉住がコーヒーに忍ばせたビニールの包みには、数字を羅列したメモと小さめの鍵が同封されていた。
朱華が初めて総合研究所の分室に足を踏み入れ、研究員である吉住に発信器付きのピアスの説明を受けたとき、朱華は盗聴を警戒し、走り書きのメモで密かに、吉住にある指示を出していた。
鍵は、その密命の完了を意味するものであった‥。
「見つけ出して、預かっていてほしいの‥」
「構いませんよ。そう遠くありませんし‥」
社長は、朱華が差し出したメモを一瞥(べつ)すると、そのままシュレッダーに滑り込ませた。
数字の羅列が郵便番号であることは朱華にも判ったが、あまりに速い社長の手際に、一瞬、言葉を失う。
ちょうどその瞬間であった。
「ちょっとー、あっくーん。ここのオムツもらってくわよー」
貫禄のあるドラ声が、託児所全体を揺るがした。
「おばちゃん、勘弁してよー! うちはオムツ屋じゃないって言ってるだろー」
「なんだいこの子はケチくさい、ミルクももらってくからねー」
扉という扉を震わせながら大声が急速に遠ざかっていく。赤ん坊が泣き出さなかったのは奇跡と言えるかもしれない。
「またやられた‥」
空を仰ぐ社長。しかしその顔は笑っている。
いつもとは全く違う笑み‥。
本当はこんなふうに笑う人なのだろうか‥?
不思議そうな朱華に気づき、照れくさそうに社長は肩をすくめた。
「表通りの方の寿司屋の女将さんでね、先月、お孫さんが産まれたんですよ」
「意外ね、近所付き合いがあるの?」
「親の代からの馴染みでね。小さい頃は、いや、ここを再建して軌道に乗せるまで、世話になりっぱなし‥」
「託児所はカムフラージュじゃ?」
「まさか? 家業ですよ、親の代からの。出来れば危険なエージェントなんてやりたくはないんですがね」
「じゃあ?」
「つぶせなかったんですよ。店だけはね‥」
意味ありげに呟くと、社長はいつものよそ行きの笑顔に戻った。
「さあ、そろそろお客さんがラッシュで来る時間だ。よろしかったら手伝っていただけませんか。気分転換もかねて、ね」
何故だか朱華は、嫌とは言えずに頷いていた。
*
「何なのあの子は‥」
ぐったりした声で問う朱華に、
「人間業じゃないでしょ?」
と、軽くウインクしてみせる社長。
「絶対、しゃべってるわ、赤ん坊と!」
初めは世の女性と同じく、赤ん坊の小さなぷくぷくした指に触れ、思わず顔を緩ませてしまった朱華だったが、30分後には、てきぱき赤ん坊の世話をする璃音を惚けた様に眺めていた。
「僕なんか手伝うと、かえって邪魔しちゃいましてね‥」
「どうしてミルクの濃い薄いまで‥。一人ずつの好みが分かるの? あの子は薄めで、その子は少し濃い目だそうよ‥。それに、私からじゃ飲もうとしないのよ!」
「璃音が言ったんですか? 濃いの薄いのって?」
「そうよ?」
拗ねたような口調で、驚いた表情の社長を見上げる朱華。
「あいつが人に話し掛けるなんて滅多にないんですよ!」
「でも、それ‥とか、ここ‥とか、あと、私が抱いた子が泣き出したときに、貸してくださいって言ったぐらいよ」
「いや、すでに、今日1日分しゃべってますよ! 璃音クーンおじさんは嬉しいよー!!」
突如、璃音に向かって大声でラブコールを送る社長に、唖然とする朱華。すでに、この社長という人物が判らなくなってきている。
一方の璃音は、社長の声など耳に入らぬ様子で、もくもくと、オシメ換えに勤しんでいる。
ーー 無愛想な子‥。
表情を表さない璃音を見つめる朱華に、我知らず微笑みが浮かんだ‥。
「璃音君。吉田さんちの真理亜ちゃん、よろしく!」
乳児ばかりが10人ほど眠りに就く部屋に、社長が顔を覗かせる。
社長は、真理亜ちゃんと呼ばれた赤ん坊を璃音から抱き取ると、
「たまには、奥様サービスしてよ‥」
と、ぼそっと頼み込む。
それを綺麗に黙殺し、すたすたと仕事に戻る璃音。
「あ、花ちゃんと、大樹くんもね!」
めげることなく璃音に呼びかけながら、社長は、のんびり見物中の朱華を引っ張り出す。
「すみません。受付のほう、お願いできますか」
仕事帰りの主婦達が次々と我が子を迎えに来るのを、社長は入り口近くのカウンターで出迎えている。
朗らかで伸びのある社長の声が、フル回転で流れ出す。
「奥さーん! 今日も真理亜ちゃん、とっても良い子でしたよー!」
「あ、朱華さん、11番のカゴ取っていただけます?」
社長は受け取ると、カゴの中の荷物を主婦に渡し、隣室から番号札の付いたベビーカーを運び出すと、瞬時に”真理亜ちゃん”を滑り込ませる。
「また明日ねー! 真理亜ちゃん、ばいばーい!」
満面の笑みで見送ると、今度は二人組みの奥様に、弾むように話し掛ける。
「お待たせしましたー。あ、今日は晃君も迎えに来てくれたのー、えらいねー」
一緒にいた3歳くらいの少年が嬉しそうにオモチャの銃を向けると、社長は大げさにカウンターに倒れ付した。
「ほんと、この子もあずかってもらえたら良いのに‥」
「そうよね、乳児限定‥ってなんとかならないの?」
「少しくらい値上げしてくれても大丈夫よ。ここ、他よりずっと安いんだし‥」
「いやー、なんといってもスペースがねえ‥」
にじり寄る二人の主婦に、はぐらかすように笑う社長。
早くも仕事を呑み込み始めた朱華に、ぼやくように呟く。
「乳児は寝るのが仕事ですけど、幼児となるとねぇ‥。好奇心旺盛ですし‥。まあ、たまーにあずかることもあるんですよ。璃音の前だと、大抵のやんちゃくれも大人しくなっちゃうし‥。でも反対に璃音の目がないと、もう凄まじいですよ、子供のパワーって。突然、体当たりで襲ってくるわ、人の体によじ登るわで‥」
「貴方の方が、保父さん向いてるんじゃなくて?」
くす‥ と朱華の口元が笑う。
「あ、それは自信ありますね。一応免状取りましたもん! けど、璃音に営業は無理でしょー? 歌って踊れる保父さんなんて、やってくれそうにないですし‥」
いつのまにか特撮ヒーローのお面を装着した社長が、何組み目かの親子を見送っている。
「それじゃあ、千尋ちゃんまたねー!」
眩しいくらいに生き生きとした表情。次々と現れる社長の意外な一面。
「穏やかに話す人だと思っていたわ‥」
背後を横切ろうとした璃音に、朱華がささやく。
淡々と仕事をこなすエージェントとしての社長。どちらが本当の顔なのだろうか‥。
大阪商人も真っ青の巧みな話術で、主婦のハートを鷲掴んでいる社長を、朱華は珍獣をを見るように眺めていた。
「‥‥いつもああなのかしら?」
怜悧な表情をピクリとも動かさず、無言で頷く璃音。
ーー 丁度良いコンビね‥。
朱華は、思わず吹き出していた。
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