第1話
王国暦32年、春。
季節は凍てつく冬との訣別を迎え、大地は再び命を吹き返した。
人々にとって、待ちに待った春である。
グランヴォード王国でもまた例外ではなかった。
いや、今度の春はそれ以上の意味をこの国にもたらしていた。
デューク王の愛娘、ローラ姫の縁談である。市街は大いに活気を帯びていた。
「旦那になるお方は幸せ者だよ」
「まったくだ。なんたってうちの姫様は、ここら辺りの国一帯で最も美しいと評判の方だからな」
街中どこへ行っても縁談の話でもちきりである。
それもその筈で、姫の出立はあと20日とせまっていた。
姫の嫁ぐ相手はグレース王国リード国王第二子、ヘンリー王子。この国から西に位置する国だ。
当時グランヴォード王国は二代目の王を戴いたばかりの若い国で、十分な力を持っていなかった。
この時期周辺諸国で力を持っていたのは北に位置するグルザーク帝国。
各国に大きな発言権を持っており、グランヴォード王国には脅威だった。
以前からグランヴォード王国は農作物の宝庫として他国から注目されていたが、最近ではグルザーク帝国との国境の小競り合いが多発しており、緊張が増していた。
デューク王はローラ姫を、グルザーク帝国にいわば人質状態で嫁がせるのを潔しとせず、そんな折りのグレース王国からの縁談話は、渡りに船だった。
グレース王国は周辺諸国と比べても遜色ない中堅国で申し分なく、グルザーク帝国との緊張が増して政に疲れていたデューク王には願ってもない話だった。
ことは着々と進み、そして現在に至った。
若国なれども民に人望の厚き王。
まだ年少だが聡明だと評判の後継者たる第1王子。
そして姫の婚姻によるグレース王国とのつながり。
誰もがこの国の行く末は約束されたかの様に思えた。
グランヴォード王国とグレース王国との国境付近。
グランヴォード王国の見張り台に立つ兵士は、前方に騎馬の群を確認した。
報告を受けた国境警備隊隊長は全兵士を率いてその群を待ち受けた。
日没時の微妙な空の色、それに照らされた広大な草原を背景に騎馬の群はゆっくりと歩を進め、国境警備隊から数メートル離れた場所で立ち止まった。
警備隊が微動だにせずにいると、先頭から少し後方の馬から人が降り立ち、警備隊の前に進んでうやうやしく一礼した。
「お出迎えいたみいります。当方はグレース王国国王の使者団でございます。グランヴォード王国第1王女ローラ姫をお迎えに上がりました。また、デューク王にも謁見賜りたく参上いたしました。書状はこちらに」
隊長は書状を受け取って一瞥した後、使者に書状を返した。
「遠路よりのご足労恐れ入ります。ここから東に向かって小1時間ほどの所に宿を取らせていただいております。なにぶん辺境の地なれば至らぬ所も多々あると存じますが、そちらでおくつろぎを。また、宿までは私がご案内させていただきます」
「お心遣い感謝します」
使者は軽く頭を下げて自分の馬に戻った。
そうしてグレース王国の使者団は警備隊の護衛を受けながら宿に着いた。
しかし、使者団はすぐには中に入ろうとせず、真っ先に空き地に天幕を作り始めた。
疑問に思った隊長が先ほどの使者に尋ねると、
「実は今回、さる高貴なご身分のお方がいらっしゃいまして、申し訳ありませんがこちらの方には天幕で休んでいただくことになっております」
「ほう、それほどの方が」
使者の言葉に引っかかりをもって、隊長は皮肉を込めて言った。
それに気づいたのか使者は微かに笑った。
「これは失礼。悪気はございませんでしたが。なにぶん第2継承者のご身分ゆえ、念には念をおしております。」
「第…2…?」
隊長は自分の耳を疑った。まさか、そんな人物がこのようなところに…?
ぎい…
その時、きしんだ音を響かせて馬車のドアが開いた。
それと同時にグレース王国の使者達は一斉に地に膝を突き、深く頭を垂れた。
隊長がまるで恐ろしいものを見るかのように馬車の方向へゆっくりと顔を向けると、果たしてその人物はいた。
従者二人が馬車に近づき完成した天幕へと素早く絨毯を広げると、彼は優雅な物腰で馬車から降りた。
美しい絵画から、そのまま抜け出てきたかのようなその美貌の持ち主は、うっすらと笑みをたたえて隊長を見やった。
「失礼ですが…」
使者の拝跪を促す声を聞いてやっと隊長は我に返り、慌ててその場に跪いた。それに続いて隊員達も跪く。
「し、失礼いたしました!」
「護衛、ご苦労でした」
涼やかな声を残し、彼は衣服を翻して天幕の中に姿を消した。
彼の人物こそ。
グレース王国第2王子にしてローラ姫の縁談相手であるヘンリー王子その人であった。
「いやいや、ヘンリー殿下に直接お言葉をいただけるとはうらやましい限りですぞ」
使者の言葉を半ば茫然と聞き過ごした隊長率いる警備隊は、まるで狐につままれたような面もちで砦へと戻っていった。
「なぜ…」
何故、王子ともあろう身分の人がわざわざ姫を迎えるためにグランヴォード王国
まで足を運んだのか?
その夜更けーーー
人々が寝静まる中、ヘンリー王子の天幕の中だけはこうこうと明かりがともっていた。
ヘンリー王子は用意された腰掛け、彼にしてみれば質素なものだがそれでも骨董屋が見れば価値あるものと判断するであろうそれにゆったりと身体をあずけていた。
ランプに照らし出された彼の姿は、先ほどグランヴォード王国警備隊の前に現れた彼とは少し雰囲気を異にしており、その瞳はランプの中の炎のように妖しくゆらめいていた。
そのヘンリー王子の前にひざまずいている人影が一つ。
「お心変わりはございませんな」
念を押すような物言いに、ヘンリー王子は興醒めた表情で目の前の人物を見やった。
「今更そのようなことを聞いてどうする?芝居はもう幕が上がっているんだよ」
「確かに。いや、その言葉を聞いて安心いたしました。我が君にもつつがなく状況を報告できます」
「ふん、我が君ね…」
おもしろくなさそうにヘンリー王子は片肘を立て、頬を支えた。
「そちらこそ約束を違えないようにね。グランヴォードを乗っ取ったあかつきには、私をグレースの王座につけること」
「決して。…様の御名において」
二人は無言の相づちをうち、ひざまずいていた人物は慇懃に礼をして天幕の外の闇にかき消えた。
ヘンリー王子は一瞬汚らわしいものに触れたかのように眉をひそめたが、すぐに気を取り直して寝台に横たわった。その表情には自然と笑みが浮かび上がる。
「これで王座は僕のもの…かな?」
無邪気な表情とは裏腹に彼は恐ろしいことを口走っていた。
グランヴォード王国に嵐が起ころうとしていた。
つづく