第1部 第1章
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夜が静かに舞い降りても、ベビーシッターの業務に終わりはこない。
璃音(りいん)‥と呼ばれた青年は、男盛りの社長から泣きわめく赤ん坊を受け取ると、優しくその背をさすった。驚いたことに、璃音の手に移ったとたん、赤ん坊は寝息を立て始めた。
どんなきかん気の赤ん坊も、この青年には心を開くらしい。社長と従業員、たった二人だけのこの託児所が、何とか持ちこたえているのもこのためである。
「変わったことはないわね‥」
社長が出迎えたのは、凛と響く涼やかな声の訪問者。
細くしなやかな髪を後ろで一つにまとめ、体のラインが浮き立つようなぴったりとした服に身を包んでいる。一見して、ここの客でないことが分かるのは、艶(あで)やかな容貌に似つかわしくない鋭い眼光からだった。
「朱華さん‥ でしたね」
穏やかに椅子を勧めると、社長はふいに表情を改めた。
「今度は、何が?」
「昨夜この近くで若い娘が死んだわ。例の手口で‥」
「終わってなかったわけですか。連続殺人とやらは‥」
「ええ‥」
「何か‥ 違いますね?」
社長の呟きに、朱華(あやか)という女は打たれたように顔を上げた。
「いや‥ 事件じゃなく、あなたがですよ‥。朱華さん。何か気がかりなことでも?」
慌てたように弁解する社長に、朱華は初めて表情を緩ませた。
「笑って‥いたのよ‥」
「その娘がですか?」
「ええ。満ち足りたように」
「そりゃ、不思議だ!」
不意に背後から起きた声に、朱華は険しい眼差しを放った。
いつからそこにいたのか、若い男が嬉しげに朱華を見ている。
「何かあったら連絡して。ここにいるわ‥」
朱華は名刺を置くと、一瞥もくれずに託児所を後にした。
「嫌われてるなあ‥」
男は情けない声をあげて、社長の前に腰を下ろした。
時折、託児所に顔を出すこの男は、大学病院の実習生(インターン)で、名を紫紀(しき)という。
「これでも、もてるんですよ。人並みには‥」
「知っています」
社長はおかしげに目の前の小児科医を見た。
この優男ぶりならそうだろう。しかし不思議なことに、そういった噂は社長の耳に入ってこない。
「お宅の美女も、相変わらず愛想なしだし‥」
不満げな紫紀に社長は苦笑いを返した。美女とは璃音のことである。
細身で繊細な顔立ちのうえに、長い髪にエプロン姿‥。確かにそう見える。
「あれでも、ずいぶん変わったんですよ‥」
「そうなんですか?」
「返事をしてくれるようになりました」
おもむろに頷く社長に紫紀は目を丸くした。そういえば、紫紀も璃音の声を聞いたのは一度きりしかない。確か、主婦を相手に紙おむつのメーカー名を答えていた。
「で‥ 今回も影使いの仕業ですか?」
紫紀は顔色を変えもせず人ごとのように尋ねた。
「そうでしょう。朱華(あの人)が来たという事は‥」
「公務員は大変だ‥」
紫紀は肩をすくめた。
「しばらくは動かないほうがいいですね‥」
軽く微笑んで、社長はテーブルの上の朱華の名刺を摘んだ。
「そこって、かなりいかがわしい高級クラブじゃありません?」
ひょいと名刺を覗き込んで、紫紀が立ち上がる。
「なんでも、普段は、女王様‥をやってるらしいですよ」
「女王‥?」
意外そうな顔でムチを振るう真似をする紫紀。ふいに、にっ‥と笑みを浮かべると、
「さすがは情報通‥」
そう言い残し、後ろ手をひらひらさせて出ていった。
*
信号が変わると同時にアクセルを踏み込み、朱華は思い出したように息を付いた。
ーー 紫紀‥という名だったわ‥
数分前に出会った男のことである。
まだあの場所に出入りしているかと思うと苛つくものを感じた。
あの場所‥ 表向きは託児所だが、裏の世界では少しは名の知れた口入れ屋(エージェント)である。
穏やかそうなあの社長がこの区域を仕切る代理人(エージェント)。
まだ40代そこそこの身で大した才覚だが、正規の影使いである朱華には受け入れがたい存在であった。
影使い‥
その名の通り、自在に影を操る、特殊な技能を持つ者達のことである。
政府の管轄のもと、素質を持つ者達が選び出され、極秘裏の訓練を受けた。
この国の裏の世界を動かす、政府の直属組織‥。その中に朱華はいた。
諜報活動から殺しまで‥ ともすれば裏の殺し屋達と何ら変わらぬ世界に身を置きながら、いわれのない任務だけは決して引き受けなかったことが朱華の誇りであった。朱華の秀逸な技能を上も認めざるを得なかったということだろうか。
そんな朱華にとって、紫紀のような存在は許せなかった。
あの男は半年ほど前まで政府の養成所にいたという。卒業生の内でも古株の朱華に面識はなかったが、この管轄に回されて、初めてあの託児所に行ったときに知った。
紫紀は とある事件に巻き込まれたことで影使いの才能を見いだされ、養成所に迎え入れられたという。驚くべきことに、教習の全行程の3分の1をわずか2ヶ月で終えたらしいが、それ以降、伸び悩み、何の上達も見せぬまま、いくつかの基本を身に付けただけで養成所から姿をくらました。
その紫紀がエージェントのもとにいるということは、拙い影使いの技を糧にして、裏の世界で利を貪っているということだろう。それが許せなかった。
実際、脱落していく影使いは多い。その技さえあれば、いくらでも金は転がり込む。好きこのんで政府の犬でいることもない。
今回の連続殺人にしても影使いが関わっているに違いなかった。だからこそ、朱華が回された。
ーー そういえば‥。あの男が影使いになったのも、この連続殺人がきっかけ‥。
殺人が起こり始めてから既に一年余りが経つ。その初期の頃に、紫紀は巻き込まれた。例の託児所に回診に行く途中だったという。
ーー 得体が知れない‥。
そう朱華には思えた。しかしそれ以上、考えは進まない。
ただ単に紫紀の持つ軽さが嫌なのかも知れない。そう思うことにした。
いかにも遊び人風の様子が朱華には好きになれない。
ーー だいたい医者のくせにあの髪‥。
肩にかかる髪を一つに束ねた紫紀の姿がよぎり、ふいに朱華は可笑しくなった。
長髪と言えば託児所の青年もそうなのだ。けれどこちらに嫌悪感は感じない。
紫紀よりも長い髪を揺らして赤ん坊をあやしていた‥。
ーー いやらしさがないのだ‥。
朱華はそう決めつけた。
しかし、ベビーシッターの職務上、あの髪型はまずい‥。髪留めの一つでも譲ろうか‥。
ふと、そんなことを考えている自分に気づき、朱華は苦笑した。
あそこで働いている限りは裏の世界に何らかの関わりがあるのだろう。そのことを忘れたわけでもないのに‥。
あの青年にしても、社長にしても、裏に住むものが持つ独特の臭気を放っていない。
そのことが、何より不思議だった。
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