第1部 第1章

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「知っているわね?」
 ユーリ‥ と呼ばれた被害者の写真を差し出す朱華。
 男は震える手でむしるように写真を受け取ると、しばらくの沈黙の後、
「みさとくん‥」
 そう呟いて、がっくりと項垂れた。
「狙われてるのは‥何故?」
 朱華の声に顔を上げる男。その目に怒りが露わとなる。
「連続殺人の被害者達‥ 彼らの繋がりは何? 教えて。私達なら助けられる‥」
 朱華の誘いに、男は急に狂ったように笑い始めた。
「何ができる! お前も奴らの仲間なんだよ!!」
 朱華は息を呑んだ。男の目の輝きは正常な思考の持ち主であることを示している。
 次の言葉を紡ごうと朱華が男を見据えたその時、背後で鈍い悲鳴が上がった。
 遙か後方、血しぶきの向こうに、倒れ込む捜査官達の姿が見える。そして、走り去る影使いの後ろ姿も‥。
 白い朱華の頬に、かっと血が上った。
 朱華の怒りに染められたように、すさまじい速さで飛び出す影。
 その刹那‥ 前方から吹き抜けるように、一陣の風が朱華を掠めた。
 と同時に、叩き付けるような風圧が朱華を襲う。
 ーー‥ 馬鹿な
 瞬きもせず、それを受け止める朱華。
 時の流れが止まったかのようだった。
 「それ」は朱華には目もくれず、まっすぐに背後へと飛び去った。
 まさに疾風‥。見ることすらかなわぬ風の正体。
 だが、朱華には解っていた。
 その正体も、そしてそれが何を意味するのかも‥。
 風を起こし過ぎ去ったものは‥ 影。
 神速の影。
 これほどまでに研ぎ澄まされた影を朱華は知らない。
 ただ、その意味するところは一つだった。
 敵は‥ 影使いは‥ もう一人いたのだ。
 そして、朱華の護るはずだった男は、恐らく、もう‥。
 振り返る一瞬、駆け巡ったのは絶望の予感。
 はやる心とは裏腹に、時はコマ送りのような緩やかさで無情に現実を見せつける。
 差し伸べた朱華の手の向こう‥
 影に胸を裂かれ、ゆっくりと崩れ落ちる‥ 男。
 朱華は全身に返り血を浴びながら‥ 為すすべもなく、ただ見送った。
 ‥‥‥‥‥

 たまらない虚脱感が朱華を包む‥。
 連続殺人は組織的な犯行‥。わかっていた。わかっていて阻止出来なかった。
 だが、そんな中でも、心のどこかは恐ろしいほどの冷静さを保っていた。
 朱華はもう助からないであろう男を背後に庇い、心を集中し、四方に影を放った。
 今更、敵の居場所を突き止められるとは思っていない。
 だが、どうせ殺られるのなら、最後まで なすべきことを全うしたい。
 助ける‥。自分は確かに男にそう言ったのだ。
 自分の言葉と、命と、引き替えならば‥。

 しかし、朱華の悲壮な決意を玩ぶかのように、見えない敵に動く気配はない。
 こんなことは初めてだった。
 いつだって、心を研ぎ澄ませば敵の息づかいを感じた。
 敵意を、殺意を、その先を辿れば、どんなに幽かでも倒すべき相手が見えた。
 だが、今回の相手は違う。敵意でも殺意でもない、ただ存在している‥ そのことを告げるためだけに、目に見えぬ圧力を朱華に送り続けている。そして、これほどの気を茫洋と宙に散らせ、朱華に居所を探ることを許さない。
 格が違う‥といえばそれまでだが、だからといって屈することは出来なかった。
 朱華は静かに高めた気を影に合わせ、一気に周囲に向けて放った。
 微細な粒子と化して広範囲に散らばった影達が、うまくすれば敵の居所を嗅ぎつけるかもしれない。この間、影達は完全に朱華の制御を離れるが、朱華には心を影と合わせることで、影に起こったわずかな変化をも感じ取ることが出来た。
 影使いとしては失格かもしれないが、待つことは性に合わなかった。

 ‥‥だが、朱華の賭けは むなしく終わった。
 朱華の叩き付けた気を受けることなく、敵は水が退くようにその存在を消した。

 倒れた捜査官達と男の元に、残った者達が駆け寄る。
 無表情で虫の息の男を見下ろす朱華。
「光‥」
 男の呟きに、朱華がハッと我に返ると、男は微かに笑うように事切れた。
「待って!‥」
 動かない男を揺さぶる朱華に、痛々しげに首を振る捜査官。
 歯噛みする朱華。
 ーー この男の笑みは‥何?
     やれるものならやってみろ?
     それとも託したの‥ 私に?

 朱華の声に、いつもの冷静な響きが戻った。
「追わなくていいわ。怪我人が増えるだけ‥」
「しかし!」
「奴を捕らえるには用意がいるわ‥」
 薬を打たれても、なお逃げ切った影使い。かなりの使い手である‥ が、朱華の実力ならば問題なく捕らえられる。そう信じているだけに、捜査官達に朱華の返事は意外だった。
 彼らは まだ気づいていない。
 朱華が懼れているのは、全く別の影だということを。
 今も自分たちを何処からか見ているだろう、第二の影使いの存在。
 やっと辿り着いた事件への糸口、それを見事に葬ってくれた許されざる相手を‥。
 朱華の第六感はまだ警告を告げているが、影すらもはぐらかされ、為す術もない。
 ーー まさか‥
 ふいに、朱華に悪寒が走った。
 ーー 影が使えなくなったのも、こいつの仕業?
 自分が「影使い」でなくなる瞬間。
 無に還っていく恐怖‥。

 圧倒的な敗北感が、朱華を打ちのめしていた‥。

      *

 夕空に鳴り響く、パトカーと救急車のサイレン。
 現場から数十メートルと程近い、ビル内の喫茶店。
 ざわめきはじめた周囲に取り残されたように、ぼんやりと雑誌を開いていた男が震える手を静かに見つめた。
「‥‥‥‥‥‥」
 信じがたいことであった。
  だが確かに‥
  影は、奪われた。
  吸い取られるように、消えて無くなった‥

 人知れず、すべてを見ていた、第二の影使い‥。
 彼も、朱華と同じく、影を失う恐怖に遭遇していた。


      ▼


「血の匂いがしますね‥」
「ええ。目の前で人が死んだの‥」
 夜も更けた、託児所の一室。
 扉にもたれたまま、朱華は宙を仰いでいた。
 どうしてかはわからないが、いつのまにか、ここに足が向いていた。
「大通りの‥。例の‥ですね?」
「そう‥。耳、早いのね? もしかして見てた? 無様に手掛かりを殺された姿‥」
「そんな‥。気になって少し調べさせてはもらいましたが‥」
 からむ朱華を気遣うように、穏やかに椅子を勧める社長。
「大学の教授だったそうですね‥。それと先日の女性の方も‥ 名のある研究者だったとか‥」
 朱華は、ふっと笑って、疲れたようにうつむいた。
「ほんと‥ いったい何処で調べるのかしら‥」
 そして、社長をじっと見つめると、やがて肩を落とし、
「ごめんなさい‥ あなたではないわね‥。わかるわ‥ においで‥」
 しんみりと呟いた。
「内通者が?」
「でなければ考えられない。先回り‥されてたわ。それともそんなに派手に動いたかしら?」
「‥‥‥」
「同じ穴の狢‥なんだって。私達‥。誰と?‥犯人と?」
 一人、喋り続ける朱華。
「言いにくいことですが、あなた方の今回の連続殺人に関してのデータはプロテクトされていません。もちろん一通りの保護はされてますが、盗んでくれといわんばかりのちゃちなものです‥」
 朱華は目が覚めたように顔を上げた。
「同じ穴かどうかは知りませんが、上は隠しています‥何かを」
 社長は確信するように頷いた。
「何故‥ 私に?」
「あなたも言ってくれました。国と殺人との関わり‥ それこそトップシークレットでしょう?」
「そうね‥。どうかしてるわ。でも憶測よ?」
「私もです」
 くすっと笑う朱華。初めて、すっきりとした表情に戻る。
 ーー 何故だろう、ここは落ち着く。
     だから‥ 来たの?
   いつ敵になるか、わからない人‥。
   表面とは違う、内に秘めている、強い何かを‥。
 社長をそう見て取ると、朱華は断ち切るように立ち上がった。
「一つだけ、調べてほしいの‥」
 言いながら、背を向ける朱華。
「光‥」
「光!?」
 息を呑む社長。そして、しばらくの沈黙の後、
「‥‥調べておきます」
「連絡はいつもの所。電話は盗聴されていると思ったほうがいいのかしら?」
「おそらく‥。でも、この建物は防音です。子供達の声が外に響くといけませんしね」
 社長は自慢げに付け足した。朱華の姿はすでにない。


 窓からの月が、灯りのない部屋に差し込んでいる。
 いつからか、背後には、影のように璃音がいる。
 夜の景色を見つめながら、社長は独り言のように呟いた。
「やっと‥ 動き出したよ‥」



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