第1部  第2章


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「入るわよ‥」
 床にのたうつ剥き出しの配線を気にも止めず、朱華は高らかにヒールの音を響かせた。
 黙々と計器に向かっていた男が、くるりと椅子ごと体をひねる。
「いい知らせのようね?」
 涼やかな笑みをひらめかせる朱華。
 総合研究所特務内分室。
 実のところ、朱華も研究班の奥部にまで足を踏み入れるのは、これが初めてであった。
 国の最高頭脳集団である総合研究所の分室として、種々の専門家達が集められていると聞くが、警察内では処理できない特殊な調査を受け持つことから、研究員は多才ではあるが変わり者ばかりが集まったとも噂される。
 今回、朱華が訪ねた男も、その変人の一人であるらしいのだが‥。
 ーー 若い‥
 まず第一に朱華が思ったのはそのことであった。
 能力主義の特務課の中でも、この男は特に若い部類だろう。まるで大学出たての若造である。その上、意外や研究班を束ねるチーフの一人だというのである。
 そして今日‥ 人目を嫌うように自室兼研究室にこもり続けてきた男が、わざわざ朱華に会いたいと言ってきたのだ。
「お久しぶりです‥」
 親しげに会釈する男を朱華は凝視した。
 この顔に覚えはないはずである。
 しかし‥ この声。
「吉‥住‥くん?」
「‥‥はい?」
 微笑んで首を傾げる男は、朱華の洞察通り、間違いなく「吉住」本人であるらしかった。
「騙されたわ‥」
 疲れたように椅子にかける朱華。
 時折、研究班から報告書を持って現れる金髪にサングラスの青年が彼ということである。
「使い走りだとばかり思ってたわ‥」
「え‥!? ひどい‥。最初にちゃんと自己紹介しましたよ!」
「そうだったかしら‥」
 観察眼には自信を持っていただけに、朱華も一方ならぬショックである。
「雰囲気変えたのね?」
「ああ‥ 頭? 色々染めてたら素晴らしい色合いになっちゃって‥。戻したんです、上も最近うるさいし‥」
 よく見ると、白衣の胸ポケットから見慣れたサングラスが覗いている。
「で‥、何かわかったの?」
「ええ、これを‥」
 吉住は生真面目そうな顔を上気させ、手の平に収まる程度の頑丈そうな小箱を朱華に差し出した。
 先日の‥ 護りきれなかった男の遺品である。
 鑑識に回す段階で、朱華も目にしている。
 妙に重たい小箱の中には、米粒ほどの金属の塊が2つしまわれていた。
「どうやらピアスらしいんです‥」
「これが‥?」
 滑らかな二つの円錐を底面でつなぎ合わせただけの塊。とても装飾品とは思えない。
「野生動物を観察する為に、小型の発信器をよく使いますよね? その人間用‥といったところです。かなり精巧なものですよ。それと‥」
 吉住はピアスをつまみ上げて、朱華に示した。
「この中央の接合部分、黒い染みがあるのが分かりますか?」
「ええ‥」
「ガイシャの血痕です。もう片方のピアスにもあるんですが、こちらは先日の女性の血液と一致しました‥」
「被害者達の耳を切り取ったのはそういう訳‥」
「しかし、今回のガイシャに限っては切り取ることが出来なかった。ですから‥」
 吉住の差し出す写真には、おそらくピアスを外そうとして出来た、引きつれた傷跡の残る被害者の耳が写っていた。
「そして、この箱自体は、発信器の電波を遮断する為のものだったようです‥」
「発信器はまだ生きているの?」
「はい。ですが‥」
 そう言って、吉住は手元にあった書類を引き寄せた。
「ガイシャの残したディスクの中身なんですが‥ 見て下さい」
 吉住の開いたページには、ピアスの詳細な図解が示されていた。
「この部分です‥。どうしても開かない。外せないんです‥」
 吉住の指したのは、血痕のこびり付いた接合部分だった。
「だから、耳ごと引きちぎるしかなかったのね‥」
「しかし、主査‥ あなたなら、外せるかもしれない」
「私が‥?」
 朱華は、促されるままに、ピアスを手にした。
 ーー この感じ?
 動きを止めた朱華の額に、冷や汗が浮かび上がる。
「どうしたんです?」
「いいえ‥」
 何でもない‥と、わずかに首を振ってみせる朱華。しかし、表情はそれを否定している。
 ーー 殺意に‥ 苦しみ‥
 朱華に流れ込んだのは、殺人現場などに漂う絶望と狂気‥ まるでそれらを吸い取ったような、敵意に満ちた闇そのものだった。
 心を鎮めるように、レポートに目を移す朱華。ふいに、紙面に触れた指先が止まった。
「闇の力‥?」
 ピアスを図示したものの横に矢印付きでそう書かれている。
 握りしめたピアスを放すと、朱華はページをめくり始めた。
「ダークエナジー?」
「はい、D.Eの省略で書かれている部分もそうです」
「そこら中に出てくるわね? どういうこと‥ このピアスに闇の力が封じられてるってことなのかしら?」
「いいえ、このピアスを開け閉めする際に、この闇の力が関与する‥ということらしいのです。ガイシャは量子物理学の権威だったのですが、どうやらそちらの面からこのダークエナジーにアポイントしているようです」
「どういうこと?」
「ダークエナジー‥ 要は影です。影が物体に作用し得る何らかのエネルギーを秘めている‥ということらしいのですが、この点に関しては主査のほうがお詳しいのでは?」
「残念ながら‥ね。私達、影使いは、影の操り方は知っているけど、どういった仕組みで影が動くのかまでは知らないわ。手を動かすのにいちいち神経や筋肉の仕組みのことを考えたりはしないでしょう? それと同じ。ただ、コツはあるわ‥。自分と影が一体となるようにイメージするの‥。気がつけば、影は私の思うように動いてくれてたわ‥」
「興味深いですね‥。きっと彼も、影使いの操る影から研究の着想を得ていたのでしょう。影使いの使う技の形態がいくつか羅列されています。ただ解らないのが‥」
 そう言って、男は欄外にメモ書き的に書かれた部分を指した。
「SHADOW MASTER?」
「どうやら影使いの最終形態らしいのですが‥」
「聞いたことないわ‥」
 吉住はなぞるようにメモを読んだ。
「影に住まい、影の中を渡る‥。影の護り人‥。何故現れない‥」
 二人の間に沈黙が流れる。
「人が‥影に溶け込むことなんて、ありえないわ‥。たとえ、影使いでも‥」
 朱華は立ち上がると、再びピアスを手に取った。
「これ‥ 一つ借りていくわ。SHADOW MASTERの件は養成所に聞いてみるから‥。あなたは更に調べを進めて」
 そう言いながらメモに走り書きし、吉住の手の中に押しつけた。
「解らないことだらけね。ガイシャを狙った昨日の影使い、今朝、植物人間になって発見されたわ。現場近くの路地裏でね‥。組織に切り捨てられたのかもしれない‥ けど、それらしい外傷は見あたらなかった」
 捜査班が仕入れた最新情報を告げると、朱華はすぐさま養成所へと向かった。




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