第1部  第2章


▼ 2


 ーー 何かが動き始めている‥

 付きまとう奇妙な予感が朱華の中で確信へと変わりつつある。
 やっと手に入れた事件への手掛かり‥。
 しかし、それは終幕へのパスポートではなく、触れてはならぬパンドラの箱‥ その鍵なのではないか? 
 心の奥の白い静寂‥。
 踏みしめた薄氷を見つめ続ける朱華。
 氷の下は‥果てなく広がる巨大な闇。
 朱華は知っている。
 いつか自分が降り立つことを。
 ‥この蠢く闇の底へ‥。
 そして、薄氷にくさびを打ち込むのは、他ならぬ自分自身だということを‥。


      *


薄く引かれた紅(くれない)の帯がしだいに空から消えていく‥。
 朱華の向かう先は残された最後の故郷。影使いとしての朱華が生まれた場所である。
 都心からわずかに外れた山あいの地を目指し、1時間。高速を下りて程なく、朱華の車は街灯もまばらな林道にさしかかっていた。
 ーー 追われている‥?
 朱華の背後、不自然なほど接近してくる一台の車があった。
 高速に乗った時から付かず離れず見え隠れしていた黒のワゴン車。
 前方に車がないのを幸いに、朱華は突き放すようにスピードを上げた。
 ーー 尾行にしては堂々としすぎね‥?
 しかし、一息つく間もなく、朱華の車は激しい衝撃に襲われた。
 ガラスの砕け散る音と共に車内に突風が起こる。
 振り返る朱華、目に映ったのは一面の黒‥。
 ーー 影‥!!
 とっさに、首筋に絡み付こうとした黒い蔓(つる)のような触手をかわすと、朱華は凄まじいブレーキ音を上げながら道路脇の工場の敷地に突っ込んだ。
 車外に飛び出し、目の前の倉庫に身を隠す朱華。
 ーー この‥せい‥?
 朱華は発信器(ピアス)を放り込んだままのバックを見やった。
 ーー こいつらから逃げていたの?
 この小さな金属塊は主の死せる後も死神を呼び続けるのか‥。
 朱華は高ぶる心を押さえつけるように前方を睨んだ。
 ワゴン車がわずかに残った陽光を遮るように工場に姿を現す。
 数秒の静寂の後、大きくドアを閉める音が響き、人影が二つ降り立った。

 彼らこそ、ピアスの持ち主を消し去る為に放たれた狩人‥。
 朱華の追い続けた殺人犯。

 その迅速で巨大な包囲網‥。背後に控える組織は朱華の思う以上に強大であるに違いない。
 ーー たいしたものね‥‥
 穏やかに侮蔑の眼差しを投げる朱華。
 まるでそれに応じるかのようなタイミングで、二人の狩人は車のライトを背にし、低くくぐもった笑い声をたてた。
人影が一つ、後ろへ下がった。
 残る一つは肩をすくめ、おもむろに両手を横に広げる‥。
 と同時に、大地が沸騰した水面の如く沸き立ち、粘液状の黒いモノがゆっくりと鎌首をもたげた。
 ドロドロと蠢く影‥。
 飼い主の命令を待ちかねるかのように、しきりにいくつもの触手を浮かび上がらせる。
 そして、狩人の悲鳴にも似た奇声と共に、影は蔓のような触手を一斉に宙へと放った。 あたかも獲物を引き裂く喜びに酔いしれるかのように‥。

 ーー 油断ね‥
 朱華の冷たい視線が、薄闇に沈もうとした影を鋭く射抜いた。
 狩ることに慣れすぎた狩人‥。
 哀れむ価値さえないが‥‥。

「カァ‥はッ‥」
 数秒と置かず、かすれた叫びと同時に何かが地に叩き付けられる音がした。
 いつの間にかワゴン車のライトは粉々に砕け散っている。
 その為、車内に待機していた残りの狩人達は、しばらく何が起こったのかさえ理解できなかった。
「どうしたっ‥!?」
 影を放った狩人に、相棒らしきもう一人が叫ぶ。
 彼だけは、かろうじてライトが消える直前の様子を目にしていた。
 倉庫を押し流そうとした黒い波。
 逆流するように高くはじけて、唐突に消えた‥。
 しかし、それだけでは目の前の出来事は到底理解出来ない。
 相棒が獲物を燻りだし、自分がとどめを刺す。燻り出す最中に、獲物が無くなることもあるが、それがいつもの手筈‥。
 だが、倒れているのは他ならぬ相棒自身ではないか‥?
 それも錯覚でないのなら、相棒は己の影に跳ね上げられ押し潰されるように地に落ちた。
 そして、その影はまだ相棒を踏みしだいたまま、静かに‥ そこにいる。
「‥‥か、影使いっ!!」
 男の金切り声が宙に響いた。
 気づいたのだ、目の前の影の美しさに。
 それは闇の中、より鮮やかに浮かび上がる‥漆黒の獣。
 夢中で己の影を放つ男。この男も倒れた男と同タイプの影を使うらしい。
 空中に数本の黒い触手がたなびく‥ が、狩人の放とうとした蔓の如き影は無惨にも切り裂かれた。
 朱華の黒き豹によって‥。

 ーー 片を付けさせてもらうわ‥。
 漆黒の豹は事なく二人目の狩人を仕留めると、すぐに地に溶けるように消えた。
 ワゴン車から銃が乱射され、朱華の隠れている倉庫が一気に蜂の巣になる。
 ーー なかなかいい腕だけど‥
 盾にした影を地に返す朱華。弾丸がバラバラと足下に落ちる。
 影使いは先の二人だけのようである。
 ーー 銃刀法違反‥ね
 朱華は指先をワゴン車へ向けた。手入れされた五指がなめらかに閉じられたとき、総ては終わっていた。
 朱華は総勢4名の狩人を影で押さえつけると、倉庫を後にした。
 まずは本部への連絡。
 朱華はリアウィンドウのなくなった愛車のドアに手をかけようとし、ふいに気になって、背後を振り返った。
 ーー 誰もいない‥。
 だが今‥ 確かに‥ 何か‥。
 振り返るまぎわ見えたのは、人影‥?
 確かめようと暗がりを見据えた朱華の視界に、一瞬きらめく物がよぎった。
 サクッ‥と乾いた音が耳を叩く。
 ーー ナイフ‥。
 小さなナイフが朱華の足元の大地に軽く突き刺さっていた。
 ほぼ無意識に車の陰に身を翻そうとした朱華。
 その瞳が愕然と見開かれる。
 ーー 動けない!?
 金縛りにあったように、指先一本、動かすことが出来ない。
 ーー 殺られる‥! 
 朱華の全身を駆け巡る悪寒と緊張。
 それをいや増すように周囲からは物音一つ聞こえない。
 目に入るのは己の影に突き立てられた小さなナイフひとつ‥。


 どれほどの時が経ったのか‥。
 恐らくはほんの僅かな‥ しかし朱華にとっては恐ろしく長い空白。
 静かだった林道に一台の車が通り過ぎた。
 眩しいほどのライトが朱華を照らし、去っていく。
 敵? ‥‥ではなかった。
 ほっと息を付くと、朱華は信じられぬように足元を見た。
 ーー 動く‥。
 自然に後ずさった足を元の位置に踏み戻して、朱華はやっと周囲に目をやった。
 朱華の倒した狩人達が車ごと姿を消している。
「‥‥‥」
 朱華は鈍く光るナイフを地面から引き抜いた。手入れの悪い安物のナイフである。
 ーー わからない‥。
 ナイフの持ち主は、何故、朱華を生かしておいたのか‥。
 何故、狩人達を回収しただけで立ち去ったのか‥。
 もしかすると狩人達の仲間というわけではないのかもしれない。だが、それなら朱華の邪魔をする必要も、狩人達を逃がす必要もないはずである。
 ーー 一体、何者なの‥。
 朱華の脳裏には昨日の忌まわしい記憶が蘇っていた。
 自分を赤子の如くあしらった影使い。
 本来なら自分はあの場所で死んでいた。
 だが、今もまた、自分はこうしておめおめと生き延びている‥。

 ーー 殺す価値もないということ‥?
 朱華は握りしめたナイフを地に投げつけた。
 そうかもしれない。これほどの影使いならば‥。
 深々と地に刺さったナイフ‥。
 朱華は崩れるように膝をついた。
ーー かなわない‥。
 悔しいが真実だった
 自分の影繰(く)りとは根本的に違う。
 いくら足掻いたところで自分には出来ないだろう。
 ーー 影と同調することは出来ても、支配することは‥。


 暗闇の中、朱華は立ち上がり、ゆっくりとナイフを引き抜いた。
 ーー そう‥ まだ生きている。
 ならば、やるべきことはひとつ‥。
 ーー 今までと何も変わらない。
 朱華はナイフをハンカチで包むと、ピアスの入った鞄にしまった。
 とりあえず鑑識に回すが、おそらく手掛かりは得られまい。
 なぜなら金縛りのように朱華を縫い止めたのはこのナイフではない。
  ナイフの”影”なのだから‥。
 その証拠に、車のライトに照らされ影の向きが変わると同時に、朱華は呪縛から解放された。
 ーー 影が影を縫い止める。そして人をも‥。
 朱華は、ふ‥と嗤うように息をついた。
 近づくほどに遠ざかる蜃気楼のように、真実は目の前で別の顔を見せる‥。
 それでも自分は歩き続けて行くことしか出来ない。
 そう‥‥
 ーー いつもその積み重ねだったはず‥。
 
 朱華は連絡だけ済ますと、時を惜しむように車を走らせた。




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