第1部
第2章
▼ 3
養成所に足を踏み入れてからずっと、朱華の中に警鐘が鳴り響いていた。
たかが数年の間に、ここまで様変わりするものだろうか‥。
施設等の表向きのことではない‥ 空気が‥違うのだ。
奇妙な静けさをともなう雑然とした空気は変わらない。だが以前なら、その奥底には、閉じこめられた熱気のようなものが感じられた。
だが、それらがまるでない。
あるのは冷えた空気だけ。人の気配がないのである。
それだけではない。
ここを覆う影は‥。
「君の活躍は聞いている‥」
はっと顔を上げた朱華の前にいるのは、頑丈そうな広い肩をもった大男であった。岩田という名の、昔から好きになれなかった教官である。もっとも、上官との間に、心通う何かを感じたことなど皆無に等しかったのだが‥。
朱華は、表情を沈めたまま、現在の状況を簡潔に話した。
「SHADOW MASTER」
明らかに、その時であった。岩田の顔に動揺が走ったのは。
影が己の制御を離れたこと、影を縫い止められ身動き一つ叶わなかったこと‥、朱華の語る内容の異常さに気づきもしない大男が、その言葉にだけ強く反応した。
「‥‥SHADOW MASTER ?」
怪訝そうに繰り返す朱華の口元を、吸い込まれるように見つめる岩田。
「SHADOW MASTER とは‥ 一体?」
感情を殺したままの声で、当然の問いを発する朱華。
筋肉ばかりで構成されたかのような岩田の頬が、わずかに笑むように引きつった。
「ここで、待っていたまえ‥」
「質問にお答えを」
「残念だが、私は答えられる立場にはない‥」
「極秘事項‥ということですか」
なおも食い下がろうとした朱華だったが、岩田の底光りする眼光に気づき、黙ってその背を見送った。待つのは構わないが、恐らく答えは得られまい。
朱華は何気ない様子で部屋を出ると、手持ち無沙汰を紛らわすかのように、窓辺に佇んだ。
運がいい。
中庭を見下ろしながら、周囲を窺う朱華。
養成所にとって、既に卒業した身である朱華の訪問は、煩雑さを運ぶだけのものなのだろう。適当に追い返すつもりだったのか、朱華の通されたフロアのセキュリティレベルは低い。
朱華は窓を背に軽くもたれ、そのまま静かに目を閉じた。
暗闇に沈む中庭。映し出された朱華の影が、一瞬、わずかに揺らいだことを認める者もいない。
朱華は中庭を挟んでほぼ真向かいに見えるドア、岩田の姿が消えた先に影を飛ばした。
戸口に背を向けたまま電話をかける岩田の姿が見える。相手は分からない。
しかし、上の指示を仰ぐだけの内容に、朱華は、糸のように部屋に差し込んだ影を廊下に戻した。
「SHADOW MASTER が現れました‥」
この岩田の第一声も気になったが、それよりも、更に奥の棟へと通じる渡り廊下の入り口に影を向けた。
この先からが、本来の養成所の領域‥。
しかし、明らかに以前とは違う。
ここに足を踏み入れてからずっと感じていた神経をいらだたせる何か‥ 悪寒しか生み出さない冷えた胎動は、ここからこぼれ出ていた。
が‥ どうするか。
仮にも、影使いの養成所である。影使いへの対策は完備されている。
まず、入り口部分の廊下は特殊な光源を取り入れた設計で、全く影を生じさせない造りとなっている。他の影に己の影を潜ませることはもちろん、強い光線の照射で、影を保つことすら困難となる。
そういった仕掛けが要所要所にあり、外部からの進入はまず不可能であった。
任務であれば、光源を断つなり、なんらかの手段はあるが、今回は己の存在を気取られる訳にもいかない。
今夜は施設外の茂み越しに、様子見程度‥ そう朱華が割り切った時だった。
ーー 警報‥?
朱華は立ち上がった。
影を通して聞こえてくる‥。いや、微かではあるが朱華のいるフロアにも、その音は届いている。
音の先は、まさに養成所の奥部であろう。
ーー ついてるわね‥
思わず微苦笑する朱華。とっくに朱華の足は、音源へ向かって駆け出している。
とりあえず潜り込んでしまった後に、言い訳は考えよう。
幸いにして、養成所のセキュリティシステムは、今もまだ朱華を部内者と認めている。
「待ちたまえ!!」
丁度、報告を終えたらしい岩田と鉢合わせしたが、勿論、止まるつもりなどない。
「警報です!」
言い残して走り去る朱華を追って、岩田もいくつかの扉をくぐり抜けた。
「‥戻るんだ」
息一つ切らさずに追いついた岩田の節くれ立った手が、朱華の肩に置かれた。
だが、朱華は動かない。
予定ならば、最も暗い波動を感じさせる方向、訓練場へと向かうつもりだったが、目の前の惨状がその足を止めていた。
「どういう‥ ことなのです‥」
逆に、岩田へと向けられた朱華の声が、怒りに震えた。
「何故!!」
朱華の指さす先には、真っ赤な血に染まった服を着た少年が数人、表情もなく立っていた。
「脱走者か‥」
岩田の問いに、はい‥と一言、幼い感情のない声が返った。
ーー 脱走者‥。
少年の足下には、赤い血肉の塊でしかなくなった存在が転がっている。
通路に入るなり、朱華が目にしたものは、既に息絶えた少年に向かい、機械仕掛けのように攻撃を繰り返す少年達の姿だった。
「答えなさい!!」
掴みかからんばかりに岩田に詰め寄る朱華。
許せることではない‥。
一目見れば解る。少年達が何をされたのかを‥。
「無駄だよ‥。朱華‥」
割って入るように、聞き覚えのある声が通路の奥から投げかけられた。
白髪の、初老の男がそこにいる。
怒りに染まった朱華の瞳に、戸惑いの色が生じた。
その男は、養成所の教官の1人であった。
朱華の見間違いでなければ‥。
朱華の知る男ならば、まだ壮年‥とも言える年齢のはずである。しかし‥ 目の前の男は‥。
「責任は私がとるよ‥」
初老の男は、憮然とする巨漢の教官に向かい、鋭い視線を投げた。
「来るんだ、朱華‥」
朱華は呑まれたように、その男‥”木崎”のか細い背を追った。
ーー 枯れた‥。
とでも言うのだろうか。木崎の鍛え抜かれていたしなやかな体は見る影もない。服の上からでも、ひとまわり肉が削げ落ちていることがわかる。
そして、異常に老け込んだその顔には、苦悩の表れのような深い皺が刻み込まれていた。
無言で先導する木崎。その後を、同じく無言で歩き続ける朱華。
2人は足音も立てず、入り組んだ廊下と幾つかの部屋を足早に通り抜けた。
「止まるな‥」
ふいに立ち止まった朱華に、木崎が初めて声を投げた。振り返りもせずに言い渡すと、再び歩き始める。
しかし、朱華は聞こえぬかのように、部屋の一面に張り巡らされた強化ガラスに近づくと、拳を打ちつけ、睨むようにその向こうを見つめた。
眼下には、当初の目的地であった訓練場が広がっている。
握りしめた朱華の拳が、次第に強く震えだす。
朱華は、感情を押し殺すように、くぐもる声を洩らした。
「影を繰る機械‥ そんなものを創って、一体何をしようというの‥」
朱華の視界の先に、大勢の少年達がいた。先刻の血まみれの少年と同じ装いの‥。
青白い頬の‥ 生気のない眼差し。
ーー 彼らには‥ 心がない。
唐突に‥ 戦慄とともに、朱華の全身はそれを感じ取った。
少年達の、刃の切っ先にも似た鋭すぎる集中力。しかし、その出所は‥
ーー 薬物‥。
そして‥
朱華の目は、少年達の頭部に刻まれた手術痕を痛々しげに見取った。
「来るんだ‥」
数秒後のことであろう、木崎の思いがけぬ強い声に、はっと朱華は我に返った。
木崎の声は警戒を促している。
同時に、眼下の訓練場に、見たことのない白いローブ姿の人影が3つ、先の巨体の教官‥岩田に伴われて現れた。
すっぽりと全身を覆ったローブ。その為、3人の顔も性別も分からない。ただ、2人は比較的長身、残る1人は成人であるのなら極端な矮躯であった。
とっさに、我知らず身を潜めた朱華だったが、間に合わなかったかもしれない。
白いローブの1人が、一瞬、怪訝そうにこちらを見上げた。
「お前は何も見ていない‥」
言い聞かせるように呟いた木崎は、すでに、その場から去ろうとしている。
「何故です!」
追いすがるように、叫ぶ朱華。その一言に、言葉にならない想いが集約する。
あの少年達は何なのか、養成所はどうなってしまったのか、そして、貴方はどうしてそれを黙認してきたのか‥。
「気付かなければ、生きていける‥」
それ以上何も言わず、木崎はただ進み続ける。
己の無力を笑う力さえ失ってしまったのだろうか。そんな背中が、全身全霊を込めて朱華に告げていた。
関わるな‥ と。
それは脅しではなく、悲痛な叫びのように朱華に届いた。
「ご助言‥ お心だけ頂いておきます」
しかしそこには、いつも通り‥静かな眼光を湛えた朱華がいた。
養成所での訓練期間中、教官 木崎は確かに鬼ではあったが、人としては至極「まとも」な男であった。
掘り返すまでもない記憶である。
しかし、だからこそ‥。
振り向いた木崎の落ちくぼんだ目を、朱華は見つめ返した。
ーー それ故の、この変貌なのかもしれない‥。
木崎が厚い扉に手を掛けた。そこはもう、外部との連絡口の一つである。
「もう‥ 会うこともない」
木崎の遠い目に、初めて人らしい光が宿った。
「教官?」
立ち去ろうとする木崎に、耐えきれず朱華は問うた。
「教えて下さい、SHADOW MASTERとは!?」
驚いたように朱華を見下ろしていた木崎が、振り切るように踵を返した。
「いずれ‥ わかる‥」
白髪の教官を呑み込むように、養成所の重い扉が閉まった。
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