第1部
第2章
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影は‥ ”心”
そう信じてきた朱華の中で、何かが崩れた。
だが、信念とも言える根元的な部位が揺らぐことはない。
それは朱華自身が初めより、己の影繰(く)りを異端と認めていたからかもしれない。
影は目‥。道具に過ぎない。その広がりの中、必要なものを見出す能力さえあれば良い。
それが養成所の方針であった。
もともと養成所で育てられる影使い達は、潜入捜査等の諜報活動をその範疇としている。影を物体の如く使える影使いというのは、ごく稀で、朱華の他に数名しか生まれることはなかった。何故なら‥
危険‥すぎたから。影を操る行為、それ自体が。
影を通して、ものを見る。それだけでも相当の修練、集中力を必要とする。だが、それ以前に、確固たる己がない者に影は使えない。戒めのごとく、そう言われていた‥。
影は、闇に‥負の想念に染まりやすい‥。
殺人現場に赴けばわかるであろう。人の恨み苦しみに染められた影が、悲痛な叫びを、癒すことも叶わず抱き続けている。
人も同じ。
闇に染まった影と共にあれば、やがて、負の想いに同調し、囚われる。
影に染まれば影に喰われる。闇に、負の想念に魅せられ、己を失う。
反対に、強烈な想いで影を染め、自分の延長の如く操ることもまた危険。己と影との境界を見失えば、再び己に戻れなくなる‥。
それゆえに影を実体化させる技は、常識を越える強靱な精神力を必要とした。
影の持つ負の部分に囚われ、裏の世界の住人となった者、己を見失いやがては廃人となっていくもの‥。実際、多くの素質ある者が命を落としてきたのである。
だからこそ、養成所は優秀な影使いの損失を恐れ、その使用を固く禁じていたのであった。
それが‥ ここ数年で変わった。
影使いの引き起こした事件数の増加、そしてその残酷性を見れば判る。
朱華は、ずっと疑問であった。
影は‥心。その想いは変わらない。だが、最近の影使いによる犯罪をみると、その心が先走ってる気がする。いや、それもどこか違う‥。
心‥ なんてものを感じないのである。
確かに、恐ろしいほどの集中力を要してはいるが、それは心からほとばしるものではない。発揮されている異常なくらいのエネルギーに関わらず、その中心は空洞で冷え切っている‥。
ーー なのに、何故、影が繰れる?
その疑問の一端が、今、解けた気がした‥‥。
振り払っても‥‥
血だまりの中‥ 表情もなく‥機械仕掛けのように影を操る少年達の姿が浮かび上がる‥。
心がなければ、闇に染まる心配もない‥ そんなことを考えているのか?
それとも、単に、使い捨てるためには、心などない方が都合がよい‥ それだけの理由なのか?
ーー 何かが狂っている‥。
自分を包み込む空気の異常さに、朱華は今更ながらに戦慄を覚えた‥。
*
影使いによる犯罪の専門部。連続殺人対策本部の置かれた特二課こと特務第二課は、連日、異様な興奮に包まれていた。
必死の捜査に関わらず、今まで、杳(よう)として知れなかった連続殺人の被害者達の身元。ところが、広がりきり手詰まりになったはず捜査網を、大学や企業、各地の研究機関に絞ったとたん、状況は一変したのである。
ここ数十年ほどの間に行方知れずとなった研究者達の数‥。
外国へ研修に向かったまま消息を絶った者‥。不自然な遺書を残し姿を消したもの‥。いつもの通り、家を出、そして帰ってこなくなった者‥。
行方不明者達の総数は明らかに、何らかの事件の存在を示唆していた。
二十数年前、突如、一八名の研究者が姿を消した。
同時期に多数の不明者を出したこの年を皮切りに、それ以降も、科学者、技術者、医師、実習生‥ 年齢も居住地もバラバラの者達が、忽然と消えるという現象は少なからず起きている。
年々その数は減少してはいるが、それは事件が巧妙に隠されているからとも考えられるのである。
実際、今回、被害者の約半数の身元が割れたのは、間違いなく捜査員達の聞き込みの成果であった。被害者の多くは捜索願いさえ出されることなく、忘れ去られていたのである‥。
残された家族の行方は現在捜査中であるが、次々に判明してきている。
被害者達の繋がり‥。彼らは姿を消した後、一体何に関わり、そして殺されたのか‥。
糸口を掴むのはこれからであった‥。
「主査‥‥」
小さく呼ばれて朱華が振り向いたのは、未だ身元の割れない残り半数の被害者についての対応を話し合っている時であった。
研究機関だけでなく、医師会や病院への聞き込みの開始‥。その決定がなされた直後に、朱華は特二課の任務から外されたのである。
突然の命令であった。
辞令を渡した管理官自身が、この決定に戸惑いを隠せないでいる。
養成所からの指示で、本来の影使いの仕事‥諜報員としての力を必要としている他省庁への転属が予定されているという。
芋づる式に被害者達の身元が割れ、やっとこれから‥
という時。
憤慨する特二課の面々の中、当の朱華が一番の冷静さを保っていた。
先日までの朱華であったら、辞令を破り捨て、養成所に直談判に上がったに違いない。
だが、今はもう‥ 養成所は自分の古巣ではない、話の通じる相手ではなくなったことを知っていた。
考えたくはないが、この影使いによる連続殺人‥ 養成所が何らかの関わりを持っていないとも言い切れない。
嫌な予感がしていた‥‥。
*
特務課は引き続きアドバイザーとしての影使いの派遣を、出来得るなら、連続殺人事件で顕著な功績を挙げた朱華の続投を要請したが、好ましい返答は得られなかった。
朱華は後任の者の名を知ることもなく、この事件から手を引かねばならなかった。
いつものように、捜査員達のすっかり出払った特二課を後にする朱華‥。
私物など何もない机‥。
寂しいくらいに身軽だった‥。
「コーヒーくらい、おごらせて下さいよ‥」
戸口に立っていたのは、いつものサングラスをかけた吉住であった。
挨拶もなしに消えようとした朱華を見透かすように、口元に寂しげな笑みを浮かべている。
「皆、よろしく‥って言ってましたよ。主査が帰って来ること、信じてるんですよ‥。このヤマは貴女じゃなきゃ乗り切れないって‥」
静かすぎるほどの昼過ぎのロビー。
表向きは資料庫である特務課‥その庁舎に来客の姿があるはずもない。
朱華がぼんやりと窓の外を眺めていると、自動販売機のカップのコーヒーを吉住がおずおずと差し出した。
「熱いですから気を付けて下さい」
わずかに吉住の声の調子が違う。
朱華は大して気にもせず受け取り、数秒の沈黙の後、
「ありがと‥」
と、いつにない笑みを浮かべた。
「絶対、諦めないで下さい‥」
吉住は自分のコーヒーを飲み干すと、照れ臭そうに、それだけ言い残して立ち去ろうとした。
「吉住くん? ずっと、気になってたんだけど‥」
「は、はいっ‥!?」
悪戯っぽい朱華の眼差しに呼び止められ、何故だか赤面し直立不動になる吉住。
「どうして、いつもなの? サングラス‥」
吉住は一瞬、きょとんとし、微妙に脱力しながら笑った。
「‥趣味です。赤外線感知用、暗視用、カメラ付き‥色々あるんですが‥」
「聞くんじゃなかったわ‥」
そう言って、朱華は今度こそ、駆けていく吉住を見送った。
そして”熱い”コーヒーの氷を飲み干すと、カップの底から現れた小さなビニールの包みをそっと口に含んだ‥。
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